こんにちは!
WhyWhyコーチのふぁーこです。
前に馴染みのクライアントさんをカウンセリングしていたら、ビデオ通話の機能なのか、いきなり風船が画面上にたくさん出てきてびっくりしました。

なんらかのワードや手のジェスチャーによって現れるらしいんですが、グッドの手を片手でするとグッド表記で、両手ですると花火が打ちあがって、ピースをすると風船だったかな?

クライアントさんが調べて教えてくれました(ありがとうございます)
で、たしか両手でバッドの手をすると嵐になったりするらしい。
今はもういろんな機能があってまったくついていけないです。
でも80とかになっても「Yeah! Yo!」とか言いながら、未来の最新器具を持ち歩いていたいなと思います(宝の持ち腐れ)
〇〇〇〇〇〇
ここ数年はずっとカウンセリングとコーチング、そしてカウンセリング+コーチングの「コーセリング」というサービスを行っていたのですが、このままのやり方ではなく、また新たなやり方や伝え方、関わり方をしていきたいなと思いはじめました。
そして、数か月前より、「決める屋」という、「自分の幸せのために決めることができるようになる」というサービスを新しく考えています。
そして、数か月前より、「決める屋」という、「自分の幸せのために決めることができるようになる」というサービスを新しく考えています。
「決める」というテーマにしようと思ったのは、本当に人生というのは一瞬一瞬が「選択」と「決める」の繰り返しであると共に、「なにか自分にとって大事なことは自分が決める必要がある」と思ったので、「決める(コミットメント)」という心の中での動きによって、より幸せな生き方ができる流れをサポートしたいと思ったからです。
私たちは、今日なにをするか決める、朝ごはんはなにを食べるか決める、傘を持って行くか決めるというような、日常的に選択・決定していることも多くあります。
そして、自分の転換期として、仕事や辞めることを決めるとか、転職を決めるとか、異動やなにか動く時期を決めるとか、時給交渉することを決めるとか、仕事配分を変えてもらうように相談することを決めるとか、仕事内容をもっとマニュアル化してもらうことを決めるとか、昇進試験を受けるか決めるとか、成果報酬で結果を出すことを決めるとか、本当に仕事やビジネスの面でも決める必要がありますよね。
また、婚活することを決めるとか、好意を伝えることを決めるとか、結婚することを決める、離婚を決める、一人暮らしを決める、シェアハウスに住むことを決める、同棲を決める、別居を決める、移住を決める、家の購入を決める、家の売買を決める、留学を決める、学校に入り直すことを決める、資格をとることを決める、病気の治療を決める、引っ越しを決める、といったように、私生活でもたくさん決める瞬間があります。
また、婚活することを決めるとか、好意を伝えることを決めるとか、結婚することを決める、離婚を決める、一人暮らしを決める、シェアハウスに住むことを決める、同棲を決める、別居を決める、移住を決める、家の購入を決める、家の売買を決める、留学を決める、学校に入り直すことを決める、資格をとることを決める、病気の治療を決める、引っ越しを決める、といったように、私生活でもたくさん決める瞬間があります。
内面的に決めることもあって、完璧主義をやめると決めるとか、素直になることを決めるとか、コミュニケーションをスムーズにできる自分になることを決めるとか、幸せになることを決めるとか、自分の価値を受けとることを決める、「NO」と言える自分になることを決めるとか、頼み事ができる自分になることを決めるとか、ハッキリ言えるようになることを決めるとか、大切な人と大切なものだけ大切にすることを決めるとか、諦めないことを決めるとか、本当に挙げればキリがありませんね。
そんなことを考えていたら、私はまずもって「決める」というのがどういう仕組みで成り立っているんだろう?と思うようになりました。
仕組みというのも、心の動きや、客観的に見た時に、「決める」という流れはどう成立するのだろう?と思ったんですね。
で、アドラー心理学では、「自分の人生のことは見方や捉え方も含めてすべて自分が決めることができる」ということを「自己決定権」と言っていて、それはつまり、過去にどれだけ辛いことや悲しい思いをしたとしても、その悲しさや辛さをそのまま心に残すことを選択するのか、癒やしたり受け止めて心に残さないように生きることを選択するのか、はたまた、その起きた出来事の見方や捉え方を変えていくかは自分が選択できるという意味で、「自分が決めることができる」と言っています。
また、「ある一つの物事、出来事に対して、どう意味付けするかによって人生は変わる」ということもアドラーは言っていて、たとえば過去にどんな生まれで、どんなに変えられないような過去の経験をしてきたとしても、それらに対する意味付けや捉え方を変えることはできるし、それに伴って未来や自分自身の行動は変えられるということを言っているんですね。
「決める」ということも、今ある自分の環境や生き方や在り方に対して、自分が自分で「選択する自由がある」と思っているか、もしくは「選択できる自由などない」と思っているか、「そもそも選択肢を考えたことがない」などによって、その後の選択や行動が変わってくると思ったんですね。
で、少なくともなにかを自分で決めるということは、「自分が選択できる」と自覚している(自認する)必要があるのですが、詳しく書くと長くなるので(急な省略)、そこでわたしがどう思ったかというと、わたしは「自分が選択できるという自由がある」ということのありがたさを感じたんですね。仕組みというのも、心の動きや、客観的に見た時に、「決める」という流れはどう成立するのだろう?と思ったんですね。
で、アドラー心理学では、「自分の人生のことは見方や捉え方も含めてすべて自分が決めることができる」ということを「自己決定権」と言っていて、それはつまり、過去にどれだけ辛いことや悲しい思いをしたとしても、その悲しさや辛さをそのまま心に残すことを選択するのか、癒やしたり受け止めて心に残さないように生きることを選択するのか、はたまた、その起きた出来事の見方や捉え方を変えていくかは自分が選択できるという意味で、「自分が決めることができる」と言っています。
また、「ある一つの物事、出来事に対して、どう意味付けするかによって人生は変わる」ということもアドラーは言っていて、たとえば過去にどんな生まれで、どんなに変えられないような過去の経験をしてきたとしても、それらに対する意味付けや捉え方を変えることはできるし、それに伴って未来や自分自身の行動は変えられるということを言っているんですね。
「決める」ということも、今ある自分の環境や生き方や在り方に対して、自分が自分で「選択する自由がある」と思っているか、もしくは「選択できる自由などない」と思っているか、「そもそも選択肢を考えたことがない」などによって、その後の選択や行動が変わってくると思ったんですね。
上記の話は、心の中の話ですが、戦時中などに比べたら現実的にも「選択できる自由」が増えているとも思います。
実はこの間、SNSでレシピ動画の投稿をされている方の、イイダコを調理して食べている動画があったのですが、そのコメント欄に、たくさん海外の方々からのコメントがあったんですね。

※動画とイラストに関係性はまったくありません
たいていは好意的なものだったんですけど、その日本のイイダコを食べること、調理することに関して、「かわいそう」「この子をこのように食べるのは悪いことだ」「気持ち悪い」というような書き込みも散見されたんです。
おそらくビーガンの方だったり、タコを食用としなかったり、好まなかったり、その国の宗教や文化的によって食べてはいけないものだったり、食べ方を決められていたりするのか、たぶん動画翻訳が正しく表示されないために誤解があって書き込んだ人もいたと思うんですけども。
で、多くのイイダコを食べたことある(もしくは食用として問題があると思わない方)は、「なにが悪いんだ!」とか「自分の考えを押し付けるな!」とか反論したくなる気持ちになってもおかしくないと思いますし、わたしも「え~!!このイイダコすごく新鮮でおいしそうだけどな~」と思ったんですが。
ただ、それよりも、わたしが第一に思ったのは、「彼らは今自由意志と選択できる自由があるからこそ、そうやって言えるんだろうな。『世界の平和と、食糧難がなくなり、自由意志を持って子孫たちが幸せに生きられますように』と願って行動し続けてくれたご先祖様たちのおかげだな」ということだったんですね。
で、多くのイイダコを食べたことある(もしくは食用として問題があると思わない方)は、「なにが悪いんだ!」とか「自分の考えを押し付けるな!」とか反論したくなる気持ちになってもおかしくないと思いますし、わたしも「え~!!このイイダコすごく新鮮でおいしそうだけどな~」と思ったんですが。
ただ、それよりも、わたしが第一に思ったのは、「彼らは今自由意志と選択できる自由があるからこそ、そうやって言えるんだろうな。『世界の平和と、食糧難がなくなり、自由意志を持って子孫たちが幸せに生きられますように』と願って行動し続けてくれたご先祖様たちのおかげだな」ということだったんですね。
たとえば、有名な映画で「戦場のピアニスト」という映画があります。
この映画(原作)は実話なわけですけども、その映画の中で、主人公のユダヤ系ポーランド人の男性は、ユダヤ人居住区で日夜強制的に重労働を強いられるんですね。
また、すべてのユダヤ人は、各々の言動や住む場所だけでなく、金品を含む持ち物や服装など、徹底的に監視・管理された状態で、食べ物も一日にわずかなじゃがいもとパンしか配給されなかったりします。
終盤に、主人公が身を隠して逃亡生活を送る時には、唯一手に残った芽の生えたジャガイモを生で食べるしかなくなって体調を崩したり、水が手に入らなくて消火用バケツから消火水を飲むようなシーンもあります。
そして、大人だけでなく、小さな子供や妊娠中の女性や車椅子の老人なども、日々当たり前に差別・迫害され、管理者たちの意に沿わなかったり、邪魔だと思われると、容赦なく殺害された内容が描かれているんですね。
つまり、心の中はいつ何時も自由とはいえ、今のような令和に比べると、現実的に選択できる自由など無に等しい状況であったと推測できるわけです。
毎日ある人は小さな子供を抱えて、ある人は病気のパートナーや家族を抱えて、ある人は一杯の水すら恵んでもらえない状況だったかもしれません。
そんな時に、もし管理者が見ていない間に、「イイダコ」が手に入ったとしたら。
もし管理者が見ていない間に、「生魚」が手に入ったとしたら。
胸に乳児を、背中に年少の子を抱えて、家では今日まだなにも食べてない家族が自分を待っているとしたら。
果たして、その目の前のイイダコを食べることや、家族や仲間たちに食べさせたいと思う気持ちは湧いてこないでしょうか。
「この子を食べるのはかわいそうだから」「これを調理するのは悪いことだ」と思う余裕などあるでしょうか。
日本でも同様に、「食糧」が制限されたり、そもそもその時の日本に生存する食糧の種類が少なかったり、配給のように選択できる自由がなくなった時代があったと思います。
そんな時に、「お腹がすいた。お腹がすいて死にそうだ。かぼちゃの葉でもさつまいもの葉でも1枚でいいから口に入れたい」とか、「自分はともかく、なんとか子供になにか食べさせてあげたい。家族に食べさせてあげたい」と思った人もいたと思うんですね。
そういった人たちが、「お腹いっぱい食べれる幸せ。お腹いっぱい食べさせてあげられる幸せ。自分の大切な人たちが食べて笑顔になれるものを与えてあげたい」という、食から伝わる愛情によって、今の私たちの選べる自由があるのだと思います。
おそらく戦時中に限らず、フグしかり、こんにゃく芋のような、毒があってもなんとか食べれるもの、食べさせることができるものを、安全に食べれる方法を見つけ、そして現在まで残してきてくれたこともその一つ。
日本に限らず、そうやって毒があったり、硬くてまるで簡単に食べられないものであったり、虫や野草の食べ物だったり、やたら調理に手間がかかるようなものも、今は世界中にたくさんありますよね。
それを、今私たちは当たり前のように享受してたり、「それがあって当たり前」かのように、その物を知ってるけど、それが「食べられること」「選べること」を当たり前にしたいと行動し続けてきてくれたご先祖様たちのおかげで、今そういう現実があるのだと私は思うんですね。
そして、選べる自由があるからこそ、イイダコの動画でも「かわいそう」であったり、「これは悪いことだ」というように発言することもできるんだなと思ったわけです。
もちろん、動画投稿者を中傷するような発言は論外として、たとえばわたしも昔ドジョウを飼っていたことがあるので、飼う前はぜんぜん思わなかったのに、飼ってからは「あの飼っていたドジョウちゃんたちの顔を思い出してかわいそうになっちゃうから柳川鍋は今後食べれないな・・・」と思ったことがあります。
かといって、柳川鍋を食べる方々や、柳川鍋で商売をされる方々を批難したり、柳川鍋の動画投稿をしている方に一言物申したいということもまったくなく、むしろ昔からの伝統料理として尊敬していますし、それぞれが幸せならそれでいいなと思うんですけども。
つまり、なにを見てどう思うか、どう感じるかというのは人によって違っていいし、それは自由で制限のかけようがないわけですけど、SNSのように、「コメントをする」「コメントしない」といったような表現する方法や行動は自分が選べることですし、すでに書き込みされているコメントに対してどう捉えるかというのも、自分で決めることができるということなんですね。
それは、数多くの選択肢の中で、「自分がどう行動するかは自分が決められる故に、その結果も自分が引き受けていく」ということ。
そして、その結果への見方(捉え方)も自分が決めていいということ。
たとえ、自分が行った行動が理想には届かず失敗し、落ち込んだとしても、「この方法では(もしくはこのタイミングでは)うまくいかないという結果を手に入れることができたので、ある意味成功である」という見方を選ぶことができたら、幾度失敗したとしても失敗という名の成功が手に入り続けるわけです。
もちろん、動画投稿者を中傷するような発言は論外として、たとえばわたしも昔ドジョウを飼っていたことがあるので、飼う前はぜんぜん思わなかったのに、飼ってからは「あの飼っていたドジョウちゃんたちの顔を思い出してかわいそうになっちゃうから柳川鍋は今後食べれないな・・・」と思ったことがあります。
かといって、柳川鍋を食べる方々や、柳川鍋で商売をされる方々を批難したり、柳川鍋の動画投稿をしている方に一言物申したいということもまったくなく、むしろ昔からの伝統料理として尊敬していますし、それぞれが幸せならそれでいいなと思うんですけども。
つまり、なにを見てどう思うか、どう感じるかというのは人によって違っていいし、それは自由で制限のかけようがないわけですけど、SNSのように、「コメントをする」「コメントしない」といったような表現する方法や行動は自分が選べることですし、すでに書き込みされているコメントに対してどう捉えるかというのも、自分で決めることができるということなんですね。
それは、数多くの選択肢の中で、「自分がどう行動するかは自分が決められる故に、その結果も自分が引き受けていく」ということ。
そして、その結果への見方(捉え方)も自分が決めていいということ。
たとえ、自分が行った行動が理想には届かず失敗し、落ち込んだとしても、「この方法では(もしくはこのタイミングでは)うまくいかないという結果を手に入れることができたので、ある意味成功である」という見方を選ぶことができたら、幾度失敗したとしても失敗という名の成功が手に入り続けるわけです。
そういう意味で、今回はそのイイダコの動画から、選べる自由のありがたさを感じたというお話でした。

【ふぁーこの公式ホームページ】
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