こんにちは!
WhyWhyコーチのふぁーこです。
12月に入って急に真冬になった首都トビリシ。

家の前もこんな感じで寒々としてます。
ちょっと前までこんな龍神様のような、ギュウグウノツカイのような雲も見えるお天気だったのに。

ニギハヤミコハクヌシかな。

冬は大根がおいしいですね。おでんの季節かな。
〇〇〇〇〇〇〇
「ボロボロになるまでがんばっても自分に自信が持てないあなたへ」
「まだやれる」とあなたは言うけれど。
「まだまだだ」とあなたは言うけれど。
なんでそんなに苦しそうなんだろう。
なんでそんなに疲れているのだろう。
なんでそんなにさみしそうなんだろう。
あなたがボロボロの身体で、いつも疲れた顔をして「まだやれる」と言う度に、止めたくなるのはなんでだろう。
ボロボロになるまで全力で、いつも誰かのためを思ってるのに、「私なんかが迷惑かけてごめんなさい」とあなたが言う度に、私が悔しく思うのはなんでだろう。
あなたがあなたのすごさを、あなたのユニークさを、あなたの器の大きさを、あなたの想像力の豊かさを、あなたの愛情深さを、「あなた」というすばらしさを自覚してない分だけ、悔しく思うのはなんでだろう。
今日はそんなことを考えて、どうしてあなたがそんなに無理をしてでも、「まだやれる」って思うのか、どうしてあなたが自分に自信がないのか考えてみた。
そうしたら、まず「やれる」と「やりたい」は違うと思って、「やりたい」とか「好き」という気持ちありきじゃないと、しんどくなることがわかった。
でも、「やりたい」とか「好きだから」って気持ちでやってると思ってても、どうしたって人間は身体的にも物理的にも「できること」と「できないこと」が出てくる。
「なんで自分一人だけではできないことがあるのか」
「なんで全能の神のようになれないのか」
「なんでやりたい気持ちで溢れててもやり遂げられないのか」
そう考えてみて、どうして神さまはそういう世界を創造したのか考えてみたら、「一人で生きるな」という言葉が浮かんできた。
一人で生まれることもできなかった私たちが、そして一人で天国の門を開くこともできない私たちが、「わたしは一人で生きている」と思うなど、驕りや慢心もいいところ。
今どういう経緯があって、そのような心境になったのか、そしてそこまでどれだけ傷つき、裏切られ、一人で乗りこえようとしてきたのか、そこにどれだけの涙と苦悩があったか、それはわからない。
困ったこと、やるしかなかったこと、怖かったこと、我慢したこと、無理したこと、罪の意識にかられたこと、不安になったこと、そうするしかなかったこと、泣くしかなかったこと、無力を感じたこと、後悔したこと、たくさんあっただろう。
でも、そう「一人で生きている」と思える心身と、一人立ちできるようになったのも、過去誰かが手を貸してくれたからなのではないだろうか。
この文章を読んであなたが理解できているのも、そしてこの「日本語」という共通言語を使って意思疎通がとれるのも、過去の日本語を創った先人たち、そしてそれを教え繋いでくれた人々のおかげなのではないだろうか。
そう考えると、この世を創った神さまは、「一人で生きるな」ということを教えてくれるために、人間をたくさん創ったんだと思う。
犠牲、我慢、無理をする、これらでもしあなたが傷ついているのであれば、身体を壊してしまうほどなのであれば、それは本当の「愛」じゃない。
「自分が悪いから」という罪悪感や、「わたしなんて」という無価値感、「やらなければいけないから」という義務感、「こういう未来がきたら怖い」という怖れ、「これをやればそばにいられる」という寂しさ、「またこうなるのが嫌だから」という過去に期待を裏切られてできた傷。
それらがそういう行動をとり続ける基になったかもしれない。
でも、それを基にして今自分が傷ついているのであれば、「愛」を選んではいない。
私たちが誰かに「愛されるため」に生まれてきたのであれば、自分も誰かや何かを本当の意味で「愛するため」に生きていこう。
「一人で生きるな」というのは、決して「誰かとくっついていろ」とか、「誰かに関わっていろ」とか、「誰かに依存しろ」とか、「誰かを巻きこめ」ということじゃない。
あなたがいつも誰かに感謝する心があるなら、それは物理的にあなたが一人でいたとしても、もう一人ではない。
あなたがいつも誰かを愛おしく思い、なにかに対して大切に思い、夢中で笑顔になることをしているなら、もし一人でいたとしても、それは決して一人ではない。
自分という存在がこの世に在ること、自分がこの世に生まれてこれたことをよかったと感じて、そして生きている命に感謝しているのなら、それはもう一人ではない。
「自分」という存在、「自分」という心、「自分」という魂なしでは、決して誰かとつながることができない。
だから、「自分」という存在をもっと祝福していいし、抑えなくていいし、出していいし、喜びで満たされていい。
よく私はゴスペルが好きでゴスペルを聞くんだけど、そこにしょっちゅう「JOY」という歌詞が出てくる。
「HAPPY」じゃなく、「JOY」。
「幸せ(HAPPY)」じゃなく、「喜び(JOY)」。
あなたの、心から湧き出てくる「喜び」が「幸せ」につながって、その「幸せ」はみんなで共有できるから。
湧き出てくる思いは、抑えることなんてできない。
あなたが本当に「喜び」で満たされたとき、その思いは湧き出て、溢れて、こぼれて、流れて、天の川のようになって、キラキラ輝く。
その天の川を見た人たちも、あなたのその「喜び」を見て喜ぶから。

もっと「自分」を感じて、認めて、理解して、喜んで。
抑えないで。
自信は見せびらかすことじゃなくて、誰に見られてなくても、誰に認められなくても、自分の心が「良し」と思ったものを大切にして、「これが自分の人生だから」って、「この自分で生きていくんだ」って自分の在り方を信頼できるのが自信だから。
失敗してもいい、下手でもいい、結果が出せなくてもいい、後悔してもいい、ダメでもいい。
それでも今ここにあなたが在る。
あなたが生きてきた。
誰かのおかげで、あなたが生きられた。
そこを祝福しよう。
そこに感謝しよう。
今までこの世に在り続けたこと、誰かに手を貸してもらったこと、愛を与えてもらったこと、あなたがあなたでいてくれたことをいっしょに喜ぼう。
今までも、これからも。
WhyWhyコーチのふぁーこです。
12月に入って急に真冬になった首都トビリシ。

家の前もこんな感じで寒々としてます。
ちょっと前までこんな龍神様のような、ギュウグウノツカイのような雲も見えるお天気だったのに。

ニギハヤミコハクヌシかな。

冬は大根がおいしいですね。おでんの季節かな。
〇〇〇〇〇〇〇
「ボロボロになるまでがんばっても自分に自信が持てないあなたへ」
「まだやれる」とあなたは言うけれど。
「まだまだだ」とあなたは言うけれど。
なんでそんなに苦しそうなんだろう。
なんでそんなに疲れているのだろう。
なんでそんなにさみしそうなんだろう。
あなたがボロボロの身体で、いつも疲れた顔をして「まだやれる」と言う度に、止めたくなるのはなんでだろう。
ボロボロになるまで全力で、いつも誰かのためを思ってるのに、「私なんかが迷惑かけてごめんなさい」とあなたが言う度に、私が悔しく思うのはなんでだろう。
あなたがあなたのすごさを、あなたのユニークさを、あなたの器の大きさを、あなたの想像力の豊かさを、あなたの愛情深さを、「あなた」というすばらしさを自覚してない分だけ、悔しく思うのはなんでだろう。
今日はそんなことを考えて、どうしてあなたがそんなに無理をしてでも、「まだやれる」って思うのか、どうしてあなたが自分に自信がないのか考えてみた。
そうしたら、まず「やれる」と「やりたい」は違うと思って、「やりたい」とか「好き」という気持ちありきじゃないと、しんどくなることがわかった。
でも、「やりたい」とか「好きだから」って気持ちでやってると思ってても、どうしたって人間は身体的にも物理的にも「できること」と「できないこと」が出てくる。
「なんで自分一人だけではできないことがあるのか」
「なんで全能の神のようになれないのか」
「なんでやりたい気持ちで溢れててもやり遂げられないのか」
そう考えてみて、どうして神さまはそういう世界を創造したのか考えてみたら、「一人で生きるな」という言葉が浮かんできた。
一人で生まれることもできなかった私たちが、そして一人で天国の門を開くこともできない私たちが、「わたしは一人で生きている」と思うなど、驕りや慢心もいいところ。
今どういう経緯があって、そのような心境になったのか、そしてそこまでどれだけ傷つき、裏切られ、一人で乗りこえようとしてきたのか、そこにどれだけの涙と苦悩があったか、それはわからない。
困ったこと、やるしかなかったこと、怖かったこと、我慢したこと、無理したこと、罪の意識にかられたこと、不安になったこと、そうするしかなかったこと、泣くしかなかったこと、無力を感じたこと、後悔したこと、たくさんあっただろう。
でも、そう「一人で生きている」と思える心身と、一人立ちできるようになったのも、過去誰かが手を貸してくれたからなのではないだろうか。
この文章を読んであなたが理解できているのも、そしてこの「日本語」という共通言語を使って意思疎通がとれるのも、過去の日本語を創った先人たち、そしてそれを教え繋いでくれた人々のおかげなのではないだろうか。
そう考えると、この世を創った神さまは、「一人で生きるな」ということを教えてくれるために、人間をたくさん創ったんだと思う。
犠牲、我慢、無理をする、これらでもしあなたが傷ついているのであれば、身体を壊してしまうほどなのであれば、それは本当の「愛」じゃない。
「自分が悪いから」という罪悪感や、「わたしなんて」という無価値感、「やらなければいけないから」という義務感、「こういう未来がきたら怖い」という怖れ、「これをやればそばにいられる」という寂しさ、「またこうなるのが嫌だから」という過去に期待を裏切られてできた傷。
それらがそういう行動をとり続ける基になったかもしれない。
でも、それを基にして今自分が傷ついているのであれば、「愛」を選んではいない。
私たちが誰かに「愛されるため」に生まれてきたのであれば、自分も誰かや何かを本当の意味で「愛するため」に生きていこう。
「一人で生きるな」というのは、決して「誰かとくっついていろ」とか、「誰かに関わっていろ」とか、「誰かに依存しろ」とか、「誰かを巻きこめ」ということじゃない。
あなたがいつも誰かに感謝する心があるなら、それは物理的にあなたが一人でいたとしても、もう一人ではない。
あなたがいつも誰かを愛おしく思い、なにかに対して大切に思い、夢中で笑顔になることをしているなら、もし一人でいたとしても、それは決して一人ではない。
自分という存在がこの世に在ること、自分がこの世に生まれてこれたことをよかったと感じて、そして生きている命に感謝しているのなら、それはもう一人ではない。
「自分」という存在、「自分」という心、「自分」という魂なしでは、決して誰かとつながることができない。
だから、「自分」という存在をもっと祝福していいし、抑えなくていいし、出していいし、喜びで満たされていい。
よく私はゴスペルが好きでゴスペルを聞くんだけど、そこにしょっちゅう「JOY」という歌詞が出てくる。
「HAPPY」じゃなく、「JOY」。
「幸せ(HAPPY)」じゃなく、「喜び(JOY)」。
あなたの、心から湧き出てくる「喜び」が「幸せ」につながって、その「幸せ」はみんなで共有できるから。
湧き出てくる思いは、抑えることなんてできない。
あなたが本当に「喜び」で満たされたとき、その思いは湧き出て、溢れて、こぼれて、流れて、天の川のようになって、キラキラ輝く。
その天の川を見た人たちも、あなたのその「喜び」を見て喜ぶから。

もっと「自分」を感じて、認めて、理解して、喜んで。
抑えないで。
自信は見せびらかすことじゃなくて、誰に見られてなくても、誰に認められなくても、自分の心が「良し」と思ったものを大切にして、「これが自分の人生だから」って、「この自分で生きていくんだ」って自分の在り方を信頼できるのが自信だから。
失敗してもいい、下手でもいい、結果が出せなくてもいい、後悔してもいい、ダメでもいい。
それでも今ここにあなたが在る。
あなたが生きてきた。
誰かのおかげで、あなたが生きられた。
そこを祝福しよう。
そこに感謝しよう。
今までこの世に在り続けたこと、誰かに手を貸してもらったこと、愛を与えてもらったこと、あなたがあなたでいてくれたことをいっしょに喜ぼう。
今までも、これからも。
〇〇〇〇〇〇〇
それではきょうも、西日を浴びた東日が西日に恋したようないい夢をみましょう~!
゜゚*☆*☆*゚ ゜゚*☆☆*゚ ゜゚*☆*☆*゚゜゚*☆*☆*゚ ゜゚*☆☆*゚ ゜゚*☆*☆*゚
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