こんにちは!
WhyWhyコーチのふぁーこです。
このお手紙は、よこたにカウンセラーとマイペースに書き綴るブログ間文通です。

〇〇〇〇〇〇〇
WhyWhyコーチのふぁーこです。
このお手紙は、よこたにカウンセラーとマイペースに書き綴るブログ間文通です。

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ようちゃんへ
こんにちは。
グルジアは朝晩が寒くなって、いよいよセントラルヒーティングをつけはじめました。
でも、幸いなことに窓から見える紅葉がキレイで、ラッキー!とちょっと華やかな気持ちになっております。
そちらはどうですか?
冬の朝の布団ほど出たくないものってないですよね。
冬の朝ほど、「今日ちょっとした隕石が時空をゆがめてくれて土曜日になってたらいいのに」と願わずにいられない日はないですよね。
冬の朝ほど、暖房をつけてるのに「え、ここ外?」と思わずにいられない室内の極寒早着替えってないですよね。
冬の朝ほど、「ちょ・・・うっま・・・!!!」とコーンポタージュに感謝せずにいられない日はないですよね。
話が逸れました。
さて、今日お手紙を書いたのは、他でもない「ようちゃんの優しさ」について、たくさん考えて、考えて、考えて、今わたしができるのはその思いを聞いてもらうことだろうと思ったからです。
というのも、わたしは同性に対して「なにかやってもらう」とか、「弱い部分を見せる」とか、「相談する」とか、「素のまま接する」ということが、実は苦手なのかもしないというか、あまり得意ではないということに最近気がついてきまして。
だから、今もこれを書きながら、けっこう緊張しているというか、「本当に素の気持ちを出せてるか?」と思ったり、「これで伝わるだろうか?」とか、「こんな感じでいいのか?」と、あーでもないこーでもないって感じでうんこを頭を抱えております。
こんなにうんこを頭を抱えるのは久々で、もうちょい小出しにしておけばよかったと、今にも溢れそうな便器を眺める気持ちで、スッポンを右耳にかけながらお手紙を書いている次第です。
※右耳は利き耳なので、やっぱり左耳にかけ直させていただきます。
で、「ようちゃんの優しさ」を考えていたときに、たとえばようちゃんが100の優しさをわたしに与えてくれたとわたしが感じたとして、でも、そこに対して「申し訳ないから・・・」って遠慮するのもなんか違うし、受けとってハイ終わりっていうのも、なんか味気ないというか、ようちゃんが投げてくれた優しさエネルギーの100を本当はちゃんと受けとってないことになるんじゃないかって思いまして。
(もちろんようちゃんは「受けとれよ!」って気持ちで与えてはないと思いますけどね)
きっとようちゃんの優しさは、「相手が幸せでいてくれるならそれはすばらしいことで、それに対して自分ができることがあるなら(手を添えることができるなら)やる」って感じだと思うんですけど。
もしそうであるなら、まずはわたしはわたしで幸せでいることが、ようちゃんの優しさを受けとった証になるなと思ったんですね。
で、その上で、もしわたしがその優しさを受けてやりたくなったことがあって、たとえば今回でいえば、「ブログ間文通」をやりたい!っていうことでブログ間文通をようちゃんに送るわけですけど、そうやって自分にとっての喜びとか、ワクワクをはじめていくっていうことが、もしかしたらようちゃんの優しさを本当に受けとったってことになるのかもしれないと思ったんですよね。
まだここまで、「なぜわたしがようちゃんに手紙を書かせてもらっているか」という導入部分ですけど、大丈夫でしょうか?
スッポンがいつ耳から落ちるんじゃないかって、話に集中できなくなってませんか?
左耳に視線を感じますが、先に進めますね。
で、ようちゃん。
心理学でだいたい最初に習うというか、理解しやすいワードとして「投影」というのがありますよね。
「自分の心の中にある思いや価値観等を、外側の世界に映し出す」というやつです。
あれって、どうして無意識に発生しちゃうんでしょうね。
意識しようにも、もうすでに心の中に染みこんでいて、それがあるのがふつうな状態で、それを通して外側を見ているので、意識できてないこともたくさんあるんだろうと思うんですよね。
最近わたしも、彼とケンカをしては、彼に「父」を投影してるんだろうなと思ったり、同性の人には「母」を投影してるから、なかなか距離感を縮みきれないのかもなぁなんて思うようになったんですけど。
投影って、ややこしいですよね。
そういえば、今書いていて思い出したんですけど、母自身も、母の同姓の友達や知り合いに対してちょっと甘えるのがうまくなかったというか、一線を引いて礼儀礼節を持って接していたというか、そんなところがあったかもしれません。
母から、「わたしはそういうところが悩みなのよ」とかっていうふうに聞いたことはなかったけど、甘えるのが下手であるがゆえに、母は鬱になったり、誰かに強制的に頼るために病気になった(病気やアクシデントが発生した)のかもしれません。
ぶっちゃけ、わたしはそうなりたくないなぁ・・・。
ようちゃんは、「あ、これ投影だわ」って自分で気づいたりした経験がありますか?
ちなみに、投影以外にも、わたしは最近自分が「優位に立ちたがる」って癖もあることに気がついたんですけど。
彼にしても、同性相手にしても、「自分が(進んで)やる」「自分が行動する」「自分で決める」っていうふうに、自分がやっていると、それはそれでいいこともあるんですけど、相手よりも優位(?)に立っておくことで、傷つかないように自分を守っている気がするんです。
優位というか、自分の中で「こうなったらこうなるから、こうしとかないと」とか、「ああいうことがあるとだいたいこうなるかだろうから、こうしとくか」とか、考えすぎたあげく、それをすることが大変ならちょっとガス抜きをしたり、誰かに任せたり、協力してもらえるか聞いたり、お願いすればいいのに、それがなかなかできなかったりとか。
あと、「ぜったいこうする(こうしたほうがいい)」って無意識のうちに頑なに決めてしまっていて、そこに周りの人の意見や気持ちが入り込む隙間がないような気がするというか。
仕事では「成果物」とか「結果(目指すべきもの)」がわかりやすいので、そのためにバランスを考えて誰かにお願いしたり、進捗を聞いて協力したり、してもらったりっていうことができるのに、プライベートになると途端にそれができなくなるというか。
う~ん、とくにプライベートで同性に対してそれがなかなかできないんですよね。
誰かに対して接する時に、自分で瞬時瞬時に意識してやってるわけじゃないんですけど、たぶん無意識にそうやることが染みついてしまっているというか、そうすることにしてしまっている気がします。
ようちゃんも、そういった体験はあったりしませんか?
あ、そろそろスッポンが耳から落ちそうなので、今日はこの辺にしておきます。
なんだか私の一人語りを聞いてもらった感じになっちゃいましたけど、今度はようちゃんのマイブームというか、最近ハマっていることなんかがあれば教えてくださいね。
ちなみに、わたしは明日からグルジアダンスを習い始める予定なので、マイブームになるといいなと思ってます。
それでは、あたたかくしてのんびりほがらかにお過ごしくださいね。
ふぁーこより
こんにちは。
グルジアは朝晩が寒くなって、いよいよセントラルヒーティングをつけはじめました。
でも、幸いなことに窓から見える紅葉がキレイで、ラッキー!とちょっと華やかな気持ちになっております。
そちらはどうですか?
冬の朝の布団ほど出たくないものってないですよね。
冬の朝ほど、「今日ちょっとした隕石が時空をゆがめてくれて土曜日になってたらいいのに」と願わずにいられない日はないですよね。
冬の朝ほど、暖房をつけてるのに「え、ここ外?」と思わずにいられない室内の極寒早着替えってないですよね。
冬の朝ほど、「ちょ・・・うっま・・・!!!」とコーンポタージュに感謝せずにいられない日はないですよね。
話が逸れました。
さて、今日お手紙を書いたのは、他でもない「ようちゃんの優しさ」について、たくさん考えて、考えて、考えて、今わたしができるのはその思いを聞いてもらうことだろうと思ったからです。
というのも、わたしは同性に対して「なにかやってもらう」とか、「弱い部分を見せる」とか、「相談する」とか、「素のまま接する」ということが、実は苦手なのかもしないというか、あまり得意ではないということに最近気がついてきまして。
だから、今もこれを書きながら、けっこう緊張しているというか、「本当に素の気持ちを出せてるか?」と思ったり、「これで伝わるだろうか?」とか、「こんな感じでいいのか?」と、あーでもないこーでもないって感じで
こんなに
※右耳は利き耳なので、やっぱり左耳にかけ直させていただきます。
で、「ようちゃんの優しさ」を考えていたときに、たとえばようちゃんが100の優しさをわたしに与えてくれたとわたしが感じたとして、でも、そこに対して「申し訳ないから・・・」って遠慮するのもなんか違うし、受けとってハイ終わりっていうのも、なんか味気ないというか、ようちゃんが投げてくれた優しさエネルギーの100を本当はちゃんと受けとってないことになるんじゃないかって思いまして。
(もちろんようちゃんは「受けとれよ!」って気持ちで与えてはないと思いますけどね)
きっとようちゃんの優しさは、「相手が幸せでいてくれるならそれはすばらしいことで、それに対して自分ができることがあるなら(手を添えることができるなら)やる」って感じだと思うんですけど。
もしそうであるなら、まずはわたしはわたしで幸せでいることが、ようちゃんの優しさを受けとった証になるなと思ったんですね。
で、その上で、もしわたしがその優しさを受けてやりたくなったことがあって、たとえば今回でいえば、「ブログ間文通」をやりたい!っていうことでブログ間文通をようちゃんに送るわけですけど、そうやって自分にとっての喜びとか、ワクワクをはじめていくっていうことが、もしかしたらようちゃんの優しさを本当に受けとったってことになるのかもしれないと思ったんですよね。
まだここまで、「なぜわたしがようちゃんに手紙を書かせてもらっているか」という導入部分ですけど、大丈夫でしょうか?
スッポンがいつ耳から落ちるんじゃないかって、話に集中できなくなってませんか?
左耳に視線を感じますが、先に進めますね。
で、ようちゃん。
心理学でだいたい最初に習うというか、理解しやすいワードとして「投影」というのがありますよね。
「自分の心の中にある思いや価値観等を、外側の世界に映し出す」というやつです。
あれって、どうして無意識に発生しちゃうんでしょうね。
意識しようにも、もうすでに心の中に染みこんでいて、それがあるのがふつうな状態で、それを通して外側を見ているので、意識できてないこともたくさんあるんだろうと思うんですよね。
最近わたしも、彼とケンカをしては、彼に「父」を投影してるんだろうなと思ったり、同性の人には「母」を投影してるから、なかなか距離感を縮みきれないのかもなぁなんて思うようになったんですけど。
投影って、ややこしいですよね。
そういえば、今書いていて思い出したんですけど、母自身も、母の同姓の友達や知り合いに対してちょっと甘えるのがうまくなかったというか、一線を引いて礼儀礼節を持って接していたというか、そんなところがあったかもしれません。
母から、「わたしはそういうところが悩みなのよ」とかっていうふうに聞いたことはなかったけど、甘えるのが下手であるがゆえに、母は鬱になったり、誰かに強制的に頼るために病気になった(病気やアクシデントが発生した)のかもしれません。
ぶっちゃけ、わたしはそうなりたくないなぁ・・・。
ようちゃんは、「あ、これ投影だわ」って自分で気づいたりした経験がありますか?
ちなみに、投影以外にも、わたしは最近自分が「優位に立ちたがる」って癖もあることに気がついたんですけど。
彼にしても、同性相手にしても、「自分が(進んで)やる」「自分が行動する」「自分で決める」っていうふうに、自分がやっていると、それはそれでいいこともあるんですけど、相手よりも優位(?)に立っておくことで、傷つかないように自分を守っている気がするんです。
優位というか、自分の中で「こうなったらこうなるから、こうしとかないと」とか、「ああいうことがあるとだいたいこうなるかだろうから、こうしとくか」とか、考えすぎたあげく、それをすることが大変ならちょっとガス抜きをしたり、誰かに任せたり、協力してもらえるか聞いたり、お願いすればいいのに、それがなかなかできなかったりとか。
あと、「ぜったいこうする(こうしたほうがいい)」って無意識のうちに頑なに決めてしまっていて、そこに周りの人の意見や気持ちが入り込む隙間がないような気がするというか。
仕事では「成果物」とか「結果(目指すべきもの)」がわかりやすいので、そのためにバランスを考えて誰かにお願いしたり、進捗を聞いて協力したり、してもらったりっていうことができるのに、プライベートになると途端にそれができなくなるというか。
う~ん、とくにプライベートで同性に対してそれがなかなかできないんですよね。
誰かに対して接する時に、自分で瞬時瞬時に意識してやってるわけじゃないんですけど、たぶん無意識にそうやることが染みついてしまっているというか、そうすることにしてしまっている気がします。
ようちゃんも、そういった体験はあったりしませんか?
あ、そろそろスッポンが耳から落ちそうなので、今日はこの辺にしておきます。
なんだか私の一人語りを聞いてもらった感じになっちゃいましたけど、今度はようちゃんのマイブームというか、最近ハマっていることなんかがあれば教えてくださいね。
ちなみに、わたしは明日からグルジアダンスを習い始める予定なので、マイブームになるといいなと思ってます。
それでは、あたたかくしてのんびりほがらかにお過ごしくださいね。
ふぁーこより
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それではきょうも、メロンソーダの色をしたブランデーができたようないい夢をみましょう~!
゜゚*☆*☆*゚ ゜゚*☆☆*゚ ゜゚*☆*☆*゚゜゚*☆*☆*゚ ゜゚*☆☆*゚ ゜゚*☆*☆*゚
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