こんにちは!

WhyWhyコーチのふぁーこです。

最近彼と出会って初めて(?)というか、人生でもたぶん3回目くらいのマニュキュアとペディキュアをしまして。
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実は新しいサンダルをゲットしたので、その夏用サンダルのためにペディキュアをしたいなぁと考えて、ネイルサロンでやってもらおうかと思ってたんですけど、行ったところがなかなか合わなかったので、やらずに帰宅。

自分でマニュキュアを買って塗ってみることにしました。

甘皮のケアとかやったことないので、それはやれなかったのですが、けっこういい感じに塗れたので満足しております。

爪の保護とか、清潔に見えるので、ホステス時代はベースコート?透明のマニキュアは塗ってたことあるんですけど、色のついたマニキュアを塗るのはもう本当に何年ぶりやら・・・。

足のペディキュアなんて子供のころ遊びでやった以来な気が・・・。

塗らない理由は簡単で、「塗り替えたりしなきゃいけないのがめんどくさいから」です(笑)

爪を自分で切らなきゃいけないのもめんどくさいと感じてた自分が、マニキュアをうまく塗れてうれしくなるのは意外な発見でした。

というか、全然関係ないけど「塗れる」と打つたびに変換で「濡れる」ってなるのやめてほしい。

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「「自由人」だと自己表現するのはなぜ?」

わたしは自分の肩書きやキャッチコピーとして「自由人です」と書いてあるのを見るといつも疑問に思う。

責める意味とか、その人の言動や生き方を否定したいという意味での疑問ではなく、言葉の意味と、使う意味がわたしの中では一致しないのである。

自由とは結果的に総体的に見て自由なのであって、「自由人です」と自分で自覚しているということは、「自由とはなにか」「自分の思う自由とは」という型がないと言えないと思う。

ということは、その型の中で生きているということは、果たして「自由」だと言えるのか?と疑問に思ってしまう。

また、本当に自由な人はなににも捉われず、偏らず、変化を怖れも抵抗もせず、けれどしっかりと「自己責任(アカウンタビリティ)」を知っている人だと思う。

「自由人です」と書くからには、そこになんらかのメッセージ性や、相手からどう見られたいかというところや、決意や、気持ちがないと書かないと思う。

それは、「相手からの見られ方」だったり、「自由とはこうだ!」という自分が表に出したいメッセージであったり(もしくはそれを自分自身の存在や生き方を通して伝えたいということなのかもしれないが)、そういったところに捉われているから書くというふうにも思える。

本当の自由人は、自由人であることにも、自分が自由であるかどうかというところにも、自覚というか興味や関心を持たずしても自由であり、「自分とはこうだ!」とか、「こう見られたい!」などという思考に捉われることはないのではないかと思ったりもする。

個人的には、フワフワしながらも、どこか肝が据わっていて、自己責任で本人の思う世界をありのまま生きている人を、わたしは「自由だなぁ」と思う。

けれど、かといって「自由人だなぁ」とは思わない。

「自由人」という、「◯◯の人」という括りが、区切りがあることがもはや自由ではない気がするのである。

だから、自由というのは、実に難しい言葉だと思う。

ある意味、今のわかりやすい言葉でいうなら、「自分軸」に近いと思っている。

仏教の言葉で「自らを由とする」という言葉があり、この「由」は、「よる」「もとづく」という意味がある。

だから、ここでの「自らを由とする」とは、「他の人・もの・出来事・環境などに由らす、自分で在ること(自らにもとづくこと)」という意味で「自由」を説いているらしい。

それは、「すべてのことは自分にもとづいている」という意味にも思える。

すべてにおいて自分による。

すべてにおいて自分にもとづく。

まさにわたしが思う自由もこの辺の感覚に近いのである。

けれど、このようにハッキリと思い込んで(自由の意味を捉えて)いることもまた、自由ではない気がする。

捉われること、捉われないこと、捉われそうなこと、捉われてると気づいていないこと。

自由でいることは実に難しくて、「自分で在ること(自らを由とすること)」が一番難しいのかとしれない。

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「自由人です」をわざわざ言う(プロフィールなどに書く)意図と、それを主張(表現)しなければいけないのはなぜか。

「自分によっています」「自分にもとづいています」という意味での「自由である自分」を表現してるなら、わたしが知りたいのは「自由であるあなた」の部分より、「どういうふうにあなたは自由なのか?」「どう自分にもとづいているのか?」というところである。

だから、そういう意味でも「自由人です」と書かれている意図や、主張(表現)の元となる、「どういうあなたなのか?」がわからないことが、今回わたしが疑問を持つきっかけになったのかもしれない。

「自由になりたいです」ならわかる。

でも、「自由人です」は、今この瞬間にすでに本人の中で確定か、もしくはすでに「わたしはそうである」と自覚していること。

自由というのは、今後変化をし続けるかもしれないし、変化しない部分があるのも含めて、そういうなにかに捉われないことを「自由」だとすると、どうして変化し続けるかもしれない自分のことを「自由人です」と今この瞬間に確定して(型にはめて)表現できるのだろう。

それは自由に矛盾している気がする。

けれど、別に矛盾していることが悪いことでもなければ、わたしが矛盾していると感じるだけで、本人の中では理に適っているのかもしれないし、それがなにか悪い影響を及ぼしているとも思わないし、わたしはそういうことをとやかく言いたいわけでもない。

自由人だと表現しているその意図と、どういう自由さを持っているのか(どういう自分にもとづいているのか)を、わたしは知りたいというか、理解したいのである。

そもそも、自由という言葉にすら捉われないことが自由だとすれば、「自由」という言葉を使って自己表現しようとするに至ったには、「わたしは自由じゃない」という思いになったことがあるか、「自分らしさ」を封印するしかなかった時があったはずで。

だから、「自由」への思いがなにかしら強いのもあるとは思う。

そこが、「自由人」という一言では、やはり個人的にはよくわからない。

わからないから、わたしはわかりたいのだと思う。

どのようにして自分のことを自由じゃないと感じたのか。

そこでどういうふうに感じたから、「自由」を必要と感じたのか。

そして、自分にとって「自由」はどんな存在なのか。

自分という存在が自由であると感じるのはどういう感覚なのか。

どういう自分であるから、自由という言葉を使って表現するのか。

このあたりを、いろいろと知りたくなってしまう。

こんなことをグルグルグルグル考えていると、頭おかしくなりそうになってきたので、今日はもう寝よう。

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7月16日(土)19時~21時(2時間の予定)満員御礼

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それではきょうも、3Dマップで映る家たちが映えってたようないい夢をみましょう~!

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