こんにちは!

WhyWhyコーチのふぁーこです。

昨日もSukhishvilebi(スヒシュビレビ)というグルジアダンス劇団のコンサートに行ってきました!!

この劇団がグルジアで一番最初にできたグルジアダンスの劇団で、今でも一番有名な劇団だと思われます。

コンサートの日はわたしがオシャレして行くからか、会場の前で彼が「写真を撮るよ~(こっち向いて)」って撮ってくれるのはうれしいんですけど、

彼「・・・(しゃがんで下から写真を撮る)」

私「・・・撮れた?」
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彼「・・・うん、アゴが長く見えるように撮った」

私「やめろ」

っていう会話をいつもしています。

「韓国では足が長く見えるように下から撮るのが流行ってるんだって」と彼が私に報告してきたのがいつだったか、そのころから下にしゃがんで撮るようになり、足を長く見せるためかと思ってたら、「アゴが長く見えるから」という謎のプロ意識。

やめろ。

というわけで、コンサートはいつものように最前列のど真ん中の席をゲットしたので、今回は4Kビデオで撮影してきました!(このコンサートは撮影OKです)

ちなみに、下の写真は彼がiPhoneで撮ってくれた写真です。(下からなのはアゴを長く見せるためじゃありませんw)
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↑この「パパヒ」というモフモフの帽子をかぶって女性も男性も激しめの踊りを踊る種類が不明だったのですが、ようやく判明しました!「ジュタ」という村がカズベキ山の南東にあり、そのジュタ村の踊りということで、「ジュタ」と名付けられているようです。カッコいい・・・!!
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↑「ツド」という踊り。これもカズベキ山近くの「ツド」という村の名前から。男性だけで力強くもすごく難易度の高い技を素早く正確にポンポン繰り出して踊るのが圧巻です。
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↑グルジアの北西のほうに「スヴァネティ地方」という自然豊かなところがあって、そこにはグルジア人を含む先住民族「スヴァン人」が暮らしています。その「スヴァネティ地方(スヴァンの・スヴァン産)」を表す「スヴァヌリ」という踊りです。羊飼いっぽい雰囲気の曲調から、集団でのそろった足使いやソロのダンスまで見れます。

というわけで、動画もまたとてもよく撮れたので、編集するのが楽しみです!

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「ブログを書くということは私にとって頼ることの一つ」

ちょっと怒りブログは今日はお休みしまして、「ブログを書く意識」についてお話したいと思います。

怒りブログをしばらく書いてきましたが、わたしにとって「ブログを書くこと」は気持ちに正直になる時間であり、頭で考えているぐちゃぐちゃした思考をどのように言語化すれば相手に伝わるのかを考えて整える時間であります。

ゆえに、けっこう感覚にも頼るし、思考も使うし、うまく言葉が出てこないことも多く、気持ちが入らない時(伝えたいことがよくわからない時)などは、書くことがなかなかできません。

たとえば、書くというのが、「あいうえお」とか、「ばーかばーか」とか、「なんでやねん!」みたいに、頭に浮かんだことを書けばいいということであれば、いくらでも書けるんですよね。

あ、夕焼けがピンクだ。

あ、白い袋が風に飛ばされて上に飛んでいった。

風強いのかな。

今日暑かったなぁ。

でも夜はちょっと涼しくなるかな。

今日なに食べようかなぁ。

あーーー眠い。

眠いけどドラマ観たい。

あぁ、昨日のグルジアダンスすごかったなぁ。

最高だなぁ。

魂ひっこぬかれた。

衣装もめっちゃかわいいし、キレイだし、やっぱりつくってみたいな。

買えるなら買ってもいいか。

でも子供用は多いけど大人用ってどこで売ってるんだろ。

だいたいめっちゃ高価だからなぁ。

自分用に作れたら何着も作れるしなぁ。

まずミシンを買わないと。

みたいな感じで、際限なく、頭で考えてること、感じたこと、見ているもの、でてきた風景(イメージ・想像)などを言葉にはできるんですよね。

でも、わたしがブログで書いていきたいのは、「自分の気持ちや心を通して誰かとつながれる文章」ってことで。

だから、上記で書いたことをここで書いてもいいとは思うんですけど、今までもこれからもあんまり書かないでいるのは、「言葉を誰かに届ける意図があるか」が大事で。

捨てるつもりで書くのか?

投げるつもりで書くのか?

破るつもりで書くのか?

それともそれを大切に届けるために(そこに残すために)書くのか?

の違いがあるなぁと思って。

そんなことを考えていたら、わたしがそうやって誰かに届ける言葉(文章)を大切にしているってことは、それを受けとってもらえることや、誰かに届くと信じて書くことは、自分にとってのサレンダーのような、頼ることに近い気がしてきまして。

わたしはたぶん、けっこう警戒心が強いというか、あんまり簡単には人を信用しないところがあると思います(みんなも大人になれば多少あると思いますけど)

そんなわたしでも、いつかはどこかの誰かに届くと信じて書くことが、自分の大切な頭の一部をここに書き残しておくことで、いつか誰かがその言葉を拾ったり見たりして、そこでその言葉を残した(届けた)過去のわたしとつながれるのであれば、それはわたしにとって頼ってることになる気がするというか。

ちょっとこの感覚もうまく言葉にできないのですが。

100%受けとってもらえるかはわからないし、自分の思ってるように受けとってもらえるか、届くのかはわからない。

それは、当然そうだろうとは思うんですけど。

そもそも、書く側のわたしも完全に素の自分かと言われたらそうじゃないときもあるでしょうし、だから言ってることの一貫性がないときもあるし、ちゃんと書けていないときもあると思います。

それも含めて、わたしが書いたものがどっかの誰かに受けとってもらえること、届けられること、誰かとつながれることが、自分にとってすごくうれしいことで、そこに自分の一部が存在していると思えることが、わたしにとって意味のあることに思えるし、喜びになるというか。

そして、そういう捉え方で文章を書いていると、自分のできることをしながらも、それをいつか誰かが受けとってくれるかもしれないと思えばこそ、「受けとってくれてありがとう」という気持ちで書けるので、対等な関係、つながりがそこに生まれる気がするというか。

ただ、今この瞬間の全力というか、自分にできうる限りのものを使って書こうとしてしまうので、疲れるは疲れるし、何度も「これでいいのか」と確認しまくるのでそれも疲れるんですけど(笑)

でも、頼るってなにも「今すぐ」「今この瞬間」じゃなくても頼れるんだよなと思って。

だから、もしわたしが死んだとしても、その後にこのブログに書いた文章たちを受けとってくれる人がいるなら、今この瞬間とか、そのブログを書いていた過去のわたしは救われるわけで。

「受けとってもらう」っていうことで、わたしの頭の一部をその人に委ねることができたというか、頼らせてもらえたというか、つながりをつくってもらえたわけで。

「頼る」って、今自分が自覚できる範囲の意識では、今すぐ頼りたいとか、頼ってからすぐに結果を知りたいって思うかもしれないんですけど。

でも、自分が結果を知らない頼り方もアリだなぁと思って。

受けとってもらえる(見てもらえる・読んでもらえる)ことが、わたしにとっての喜びなんですよと。

つまり、今これを読んでくれている方、いつもブログを読んでくれる方に頼らせてもらっているので、「ありがとうございます」とお礼を言いたいということでして。

ちなみに、7月15日・16日に怒りの講座が残り1枠あるんですが、ここは一つどうでしょう?

もう一つ頼られてみませんか?

怒りの講座、受けてみませんか?(営業ヘタかよw)

というわけで、ぜひご参加をお待ちしております!!

【怒りの講座(ワークショップ)の開催日】

7月15日(金)19時~21時(2時間の予定)満員御礼
7月16日(土)19時~21時(2時間の予定)満員御礼

料金は3000円(込)で、オンライン開催です。

詳しい内容と、お申込みは募集ページにて、ぜひぜひご参加をお待ちしております!!



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それではきょうも、アフロのミステリーサークルが出現したようないい夢をみましょう~!

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