有名な人が自分で死を選んだニュース。

おかげでいろんな所で「死」についての意見や考えを見る機会が増えて、彼とも自死について話したりした。

彼は昔、自分で死を選ぼうとしたことがある。

「死を選ぼうと」というと、どんな風にこの一文を受けとるだろう。

悲観的に、不安や気持ちに押しつぶされそうに、絶望的に、というイメージで受けとる方が多いのではないかとおもう。

でも、彼は

「ずっと毎日毎日、目がベランダの向こう側を見るようになって、そっちのほうがいいじゃんみたいな感じになって。
むしろあっち側にいったほうが解放的じゃんみたいな」

と言った。

うん、そうだよねとおもった。

今いる場所よりも、今いる世界よりも、今いる現実よりも、もっと解放的で、自由で楽で、生まれ変われそうというか、解き放たれるかもと感じるようになるんだよね、とおもった。

今「自分は生きて行く」と認識して生きているのが現実世界だとしたら、死界という未知であり、ある意味ファンタジーな世界との「さかい目」が薄れていく。

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通常、わたしが思うにそのさかい目にはハードルがあって、

一枚一枚「楽しかったこと」「嬉しかったこと」「家族への思い」「周りの人たちの顔」「死を恐れる気持ち」「誰かとの繋がり」「やりたいこと」などのハードルが立っている。

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このハードルがたくさんあったり、頑丈にそびえ立っている人は自死しないし、自死をしようとした人、もしくはした人に対して

「家族のことを思い出せば自死することもなかったかもしれない」
「自ら死ぬことはよくない」
「周りに助けを求めればよかったんじゃないか」
「まだなんでもやれる歳なのにもったいない」

と言ったりする。

それはある意味その通りだともおもうし、その考えが自死を防ぐのも事実だとおもう。

ただその中で一つおもうことは、それを言える人と自死する人とでは「そのとき見てる世界と感じてる世界と立ってる世界がちがう」ということ。



わたしは中学のころ、なぜかずっと自分を殺したかった。

反抗期やら思春期ということもあって、自意識過剰だったりしたせいもあるけど、意識がつねに自分に向いていた。

だから自分を許せないとか嫌悪するだけじゃなくて、「死ねばいいのに」「殺す」と自分が死ねるというか、殺せる方法をずっと調べたり考えていた時期がある。

その時期をこえてわかったのが、自分で死ぬことって「人生最大のわがまま」だなということだった。

そのころネットでBBSという無料掲示板が流行って、その掲示板に自分の好きなスレッドを立てたり書きこみができるものがあった。

わたしは誰かに愛を伝えられないかとおもって、当時「愛」という名前で「死にたい方」向けに居場所(吐き出し場所)的なスレッドを立てた。

そのスレッドで誰かが「死にたい」なんて言うと通りすがりの誰かは先ほどのように「家族の気持ちを思い出して」とか「助けてくれる人はいるよ」と書きこんでいた。

そのときおもった。

「たしかにそうおもうけど、自死をする人は周りのこと考えられる状態じゃない。思い出せる状態じゃない。周りの気持ちとか声が聞こえないくらい自分の気持ちとか意識でいっぱいになってて、死界と現実の間にあるハードルがなくなってきてるんだよ」

と。

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だから、「あ、そうか。自分で死ぬことって周りの気持ちとか環境とか誰かのことを考えるというよりは自己的な行動だから、人生最大のわがままなのかもしれないなぁ」とおもったのだ。

わたしが自分で死を考えていたときは

「もういろいろ頭の声と現実の声がうるさくて、申し訳ないけど、解放されたいのでどうかいかせて」

という気持ちで、怒りと申し訳なさと自分への意識でいっぱいだった。

そして「自分が自分で死を選ぶ(死にに行く)」ことを「悪いこと」とおもっていない(精神状態だった)というのも、彼と同じだった。(今も思わないけど)

彼は「ずーっと寝ないでいたりするとなんか意識がパーっていうか、自分で自分の意識がわからなくなったりするけど、それと同じで脳では思考できなくなってる感じ」と言ってた。

だから「あっち側(死界)にいく」のを良いとか悪いとかそんな思考で考えてないし、その意識すら出てこなかった、と。

たしかに自分を殺そうと思っていたころは「死界にいくこと(未知の世界)」を考えたらなぜかすごく心が楽になって、それを考えることで生きられていた気がする。

彼曰く、「自分で生きるか死ぬか選べるって神様がこの世界に設計したプレゼントだから」とのこと。

うん、ほんとそうだ、とおもった。

「家族のことを思い出せば自死することもなかったかもしれない」
「自ら死ぬことはよくない」
「周りに助けを求めればよかったんじゃないか」
「まだなんでもやれる歳なのにもったいない」

こう言えるかどうかは自死する人とそうじゃない人で「そのとき見てる世界と感じてる世界と立ってる世界がちがう」のだから、どちらに立っているかで変わるんだろう。

もしも「わたしは生きていく」の現実世界に足をつけて死界へのハードルもたくさん立ってる人であれば、「自死」は自分がする側ではなく「される側」のため、そういうことを言えるとおもう。

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ある意味、大切な人に「自殺されたら悲しい」「自殺されたらさみしい」とおもう愛情があったり、相手を思いやれる余裕などがあるから言うのだとおもう。

でも死界にいくハードルがなくなったり見えなくなってどんどんあっち側とのさかい目がなくなってる「自死する側」の人にとって、自死は自由になったり解放されたり、生まれ変われる手段のため、「むしろそっちのがいいんじゃないか」的な感覚になったりする。

まさに、「ハードルがなくなる」「ハードルが低くなる」状態。

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だからわたしは、神様が自らの死を選べる人生を与えてくれたのだとしたら、それは残された側にとってはもちろんさみしく、悲しいことだけど、「解放されたかったんだよね」とおもうと、それも含めてその人の選んだ人生なんだよな、とおもう。(とはいえ、彼や家族のような心理的距離の人が自死したら暴れまくるとおもうけど)

残された側の今生きてるわたしたちが、自ら死ににいった人のことを、死後もなお責めたり否定することもできる。

その人との心理的距離感が近いだけ、その人の死を受け容れられなかったり受け容れたくない気持ちが多い分、なじったり責めたりすることもあるとおもう。

それは残された側(というより意識的に残った側)のわたしたちに選べる「楽になる方法」でもあり、生きていくために必要なプロセスなのだともおもう。

ただよく考えると、自死した人を責めているというより、ほんとは「大切な人を助けられなかった自分」か、「大切な人を笑顔にさせられなかった自分」を責めていて、でもそうやって自分を責め続けるのはしんどすぎるので自死した人に当てているのでないかとおもう。

もしくは「死という恐怖」に向き合ったり「喪失感」という感情を自分が持っていることに耐えきれなくて、それを正当化したり見ないようにする方法がそうなのかもしれない。

だから自死を防いだり、そういった感情の傷を防ぐのは、「現実世界との繋がり」なんじゃないかとおもう。

わたしの場合、「愛」名義で立てた死にたい方向けのスレッドにいろんな人が書きこんでくれた中で、リストカットをしたり自殺したいと言っていた女の子が一年後くらいに

「愛さん、お久しぶりです。まだこの掲示板にいますか?わたしは前にここに書きこんで、愛さんが"いつでもここにいるし、あなたのそばにいます"って言葉をかけてくれて救われました。今もまだ家族との問題はあるけど、リストカットもせずに過ごしています。あのときは本当にありがとうございました。」

と言ってきてくれたとき、ほんとうにうれしかったのを覚えている。

とにかくなにがどうとかじゃないけど「よかった」とおもった。

「お金も出さず、直接会いにくることも命を救うこともせず、ただ掲示板で好きに書くことなんか誰でもできる。偽善者だろ。」と書かれたこともあって、「たしかにそう言われたらそうなのかな」とおもったこともあった。

だけど、それはそうだとしても、当時の自分はだれかを受け容れたり気持ちを伝えたいって思いのが大きくてやってたので、その掲示板で彼女が「現実との繋がり」を持ってくれたことはうれしかった。


そして彼の場合、当時死へのハードルがなくなっていたころ、ちょうど家の近所で室外機の爆発事故があったそうだ。

けっこう近かったこともあって大きな爆発音がしたらしく、一瞬彼は自分が飛び降りて死んだ音だと錯覚したらしい。

そこで彼が「あれ?ぼく今生きてる?ここは部屋だよな。生きてる」と確認し、その爆発事故の現場に行ってみたら、騒然とした中で血まみれの方がいて「ハッと目が覚めた」らしい。

「死ぬっていうのは、こういうことなんだ。ぼくはこんな怖いことをしようとしていたんだ」

と現実世界に帰ってきたとのこと。

それがなかったら今彼はここにいなかったかもしれないと思うと、そのとき彼の中に死への恐怖というハードルが立って、現実世界のほうを向いてくれてほんとうによかったとおもう。



いまもしも死を考えたり、死ぬことを考えることで「解放される場所」を見た気がして心が楽になる人がいるなら、その人たちの「現実世界への繋がり」を考えたい。

もしもその繋がりが一つもないと言うならば、わたしがその現実世界の居場所をつくっておこうとおもう。

ここなら、いていいんだ。とか。

ここなら、なにも考えなくていい。とか。

ここなら、安心できる。とか。

そういう居場所になってくれる人がいるといないとじゃ、まったく違うとおもうから。

どんどん、逃げていいんだよって。

もしも苦しむ元がそこにあるならば、家族とか周りの人なんか、捨てていい。

捨てることに、罪悪感をもつ必要はない。

家族とはいえ他人、一人一人ちがう人生を歩む人間なんだから、心配も罪悪感もいらない。

どんどんどんどん捨てて、責任感とか義務感みたいな鎖も捨てて、

世間とか会社とか学校とか家っていう檻から逃げだしていい。

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人は自分でイヤな感情を処理しきれなかったり許せない場合、見ず知らずの人や自分以外のだれかを否定して、攻撃することでその感情を正当化しようとしたり、見なかったふりをする。

「被害者」になったとしても加害者のことを責め、「加害者」でも被害者のことを否定したり責めたりする。

でも結局だれを責めていようとも、ほんとは心の奥で自分を責めてる。自分の気持ちや苦しさや怒りをその対象やリアルな誰かに映し出してるだけ。

そして自分の気持ちや意識でいっぱいになってるときこそ、まるで幻想くらいの許せない自分を責めてる。自分を殺したいくらい、責めてる。

だからもう自分を責めなくていい現実が必要。

自分を責めずに許せるような居場所が必要。

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ただ“自殺しなけりゃそれでいい”、ではない。

彼ら彼女の意思を尊重し、幸せを願うからこそ海外では「尊厳死」「安楽死」という選択肢があるように、ただ死なずにいればそれでいいわけではないとおもう。

自死を選ばない上で、どうやったら「それがその人の幸せなのか」が大切だとおもうから。

そこにいたる道を、いっしょに探していけたらなとおもう。

好きなことや好きなところ。

心地いいことや心地いいところ。

やりたいことや行きたいところ。

ココロが休まること、休まるところ。

ココロが動くこと、惹かれるところ。

自分を許せるところ、受け入れられるところ。

その人にとってのそんなところを、何年かかっても探していきたい。





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それではきょうも、さとうのごはんにごま塩が振ってあったようないい夢をみましょう~!


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